宮沢りえの母の若い頃は美人ホステス!壮絶な最期の死因と生い立ち

宮沢りえの母(りえママ)|美人ホステスの壮絶な最期の死因と生い立ち 美人女優・タレント

1984年、11歳から芸能活動をしはじめ、1987年CM『三井のリハウス』で注目を集めて以来その後芸能界の第一線で活躍し続ける女優の宮沢りえさん。

宮沢りえさんと言えば、「りえママ」と呼ばれた母親が印象的です。プロデュースとマネジメントを担当し、一卵性親子と言われた程、宮沢りえさんの隣にはいつも一緒にいる様子がメディアで頻繁に報じられていました。

宮沢りえさんの母、宮澤光子さんは2014年9月23日に65歳で亡くなられましたがその生涯、最期は壮絶だったようです。

今回は、宮沢りえさんの母、宮澤光子さんの死因や壮絶な生い立ちについてまとめます。

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宮沢りえの母(りえママ)の壮絶な最期・死因は?

「りえママ」と呼ばれていた宮沢りえさんの母親、宮澤光子さんの死因は、肝腫瘍です。

以前から肝腫瘍と病院で診断されていましたが、病院に行きたくないという母の意思を尊重し、自宅療養をしていました。

宮沢りえさんは、母の調子が悪くなっていく姿をみて、覚悟をし、その最期を看取ったということです。

具合が悪かったので、覚悟はしていたんですけど、でも、そんな覚悟は覚悟ではなかったぐらい、想像もつかない喪失感がありました。病院に行きたくないという彼女の意思があったので、自宅で療養していたんです。自宅で朝亡くなって、その後、喪主としていろんなことを決めなければならなかった
「転ばない人生はつまらない」ーー宮沢りえの覚悟(2020/12/20、Yahoo!ニュース 特集編集部)

宮沢りえさんは、母親が亡くなった時、次のコメントを残しています。

最期に、生きるということの美しさと、凄まじさと、その価値を教えてもらいました。そういった全ての宝物を胸に、私は、役者として、母として、女として、惜しみなく生きようと思います
「りえママ宮沢光子さん死去、宮沢りえ「全ての宝物を胸に…」(2014/09/25、サンスポ

母親へのリスペクトが感じられるコメントです。しかし、宮沢りえさんと母、宮澤光子との間には「毒親」「共依存」「大物芸能人との交際の強要」等様々な憶測がありますが、実際にはどのような人生だったのでしょうか。

父はデザイナーで裕福な家庭で育つ

宮澤光子さんは、1949年生まれの東京育ち。
父親の喜一さんは、画家を目指し、戦後は商業デザイナーとなり成功をおさめています。
母は家を出ていき、父子家庭として育ちました。
兄弟は4人おり、宮澤光子さんは5人兄弟の末っ子です。

戦後の貧しい時代に育った光子さんですが、バレエや水泳を習い才能を発揮します。
しかし、父の「女は家庭におさまるべき」という価値観のもと、バレエや水泳を本格的に極めることを反対されます。

保守的な父に反発し、高校卒業後は家を飛び出します。

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容姿が美しいモデル・ホステス時代

光子さんは、身長166cmと長身で、容姿に恵まれ、モデルやホステスをしながら六本木で様々な経験をしながら自分の人生を模索する日々を過ごしていました。

りえママは、若い頃は美しかったようで雑誌『Seventeen(セブンティーン)』で見たというコメントもあります。

昔、雑誌「セブンティーン」の特集で見ました。
きれいな方でしたよ。
服用していたお薬が原因で太ってしまった、と本人のコメントが載っていました。
りえちゃんとはあまり似ている感はなかったんですが、りえちゃんはハーフだし、華やかな感じの顔立ちですものね。
お母さんは日本的な美人顔でしたよ。(引用:Yahoo知恵袋

りえママは、加賀まりこさんとも交流があったようで、「宮沢りえちゃん以上の美貌でスタイルもよく周囲の男性全てに憧れられる、人形のようにものすごく美しい人だった」と加賀まりこさんはいいます。

宮沢りえさんが芸能界入りし、りえママと愛称で呼ばれる頃には、太った姿となりますが、その原因は後に触れるように、病気によるホルモンバランスの崩れによるものです。

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オランダ人男性と結婚

そんな折、外国語を学ぶためにヨーロッパへ。
ヨーロッパ行きの船の中で、オランダ人船員と出会い恋に落ちます。

そのオランダ人男性と、一緒に暮らしますが、
オランダの田舎生活の退屈さに耐えきれず、帰国します。

帰国後1973年4月6日、宮沢りえさんを東京練馬区で出産。

父親であるオランダ人男性は東京まで光子さんを追いかけてきましたが、光子さんは宮沢りえさんを女手一つで育てます。
宮沢りえさんは父親の顔を知らないといいます。

生活費を稼ぐために、銀座でホステスとして働き、
宮沢りえさんは、光子さんの姉さつ子さん一家に預けられます。
さつ子さんは、夫、息子、宮沢りえさんと大泉学園に暮らし、
光子さんは、都心のマンションに一人暮らしをします。

宮沢りえさんは小学校4年まで叔母一家と家族のように暮らし
愛情いっぱい育てられ幸せな日々を過ごしていたようです。

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ピアニストと再婚・出産後離婚

1976年1月、光子さんは、ピアニストの小沢典仁さんと再婚し、宮沢りえさんと3人で暮らすことに。
しかし、3人の生活はそううまくはいかず、宮沢りえさんは義父に懐くことはなかったようです。

光子さんと義父である小沢典仁さんはともに夜に仕事をしていました。
夜間、一人ぼっちで家に残された宮沢りえさんを心配した近所の人が
宮沢りえさんの面倒みたと知ると、光子さんは激昂したといいます。

自分以外の愛情を受け取り、その相手に好意を抱くことで、
宮沢りえさんが自分の元から離れていくことを極度に嫌がったのではないかと小沢典仁さんは言います。

1977年、光子さんは小沢典仁さんとの間に男児を出産し、りえさんも弟の誕生を喜んでいたといいます。しかし、光子さんは子どもとは一切会わないと約束をし、翌年に離婚します。

離婚の原因は、光子さんが生まれたばかりの長男を小沢典仁さんの実家に預け、小沢典仁さんの男友達と2人で遊びに行ったということにあるといいます。

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子宮がん後、容姿に変化

宮沢光子さんは離婚後、子宮がんが発覚します。手術は無事成功しますが、ホルモンバランスの影響で容姿が著しく変化したといいます。

宮沢りえさん18歳の時のヌード写真集『Santa Fe』を出版時、
「若い時の美しさは特別なもの。20歳を過ぎれば、りえも太るかもしれない。私のように」という宮沢光子さんの言葉は、自身の経験からきているようです。

銀座のホステスとして活躍していた光子さんですが、病気後は保険の外交員などをして練馬でりえさんと暮らしていたといいます。

自宅の近くには芸能事務所関連の人が住んでおり、デビューを持ちかけられることも頻繁にあったといいますが、宮沢りえさん本人の意思を尊重し、母光子さんは誘いを断り続けていたそうです。

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宮沢りえのプロデューサー・マネージャーでバッシング

1987年、三井のリハウスのCMで注目を集めてトップアイドルとなり、
その後、16歳でふんどしカレンダー、
18歳の時には『Santa Fe』でヌード写真集を発売するなどいつも大きな話題の中心となっていた宮沢りえさん。

宮沢りえさんは当初、大手事務所に所属したといいますがすぐに母が個人事務所を設立し、光子さんの姉さつ子さんとともに経営します。

18歳の時ヘアヌード写真集を出版した際、光子さんの豪腕ぶりに当時のマスコミからは非難や様々な憶測が飛び交いました。

弱小事務所であることでマスコミからは見下された対応をされたと言いますが、光子さんは怯むことなく立ち向かっていったということです。

宮沢りえさんを大手事務所に所属させなかったのは、何をされるのか危険であり、守ろうとしたためと、りえさんはインタビューで答えています。

加熱報道についても、「嘘ばっかり」であるとし、反論したいという当時のりえさんに対して、光子さんは、「絶対に反論はしないほうがいい。いつか分かるときが来るから。それに対して抵抗するのは、いい仕事をすることだと思う」と諭したといいます。

1996年、親子ともにアメリカ・サンディエゴに移住。その後、りえママは、8年ほど単身でフランスで暮らし、2006年に再び同居しています。

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宮沢りえの母(りえママ)|枕営業強要・噂の真相とは?

宮沢りえさんは、母親から枕営業を強要されていたのではないかという憶測は以前からあるようです。

芸能リポーターの井上公造さんは、光子さんは、りえさんが一流の男性と付き合うことに固執したといいます。

ママはりえさんの異性関係までコントロールしようとしました。光子さんには、一流の男性と付き合ってこそ、一流の女性になれる、という信念のようなものがあった
引用

さらに当時、光子さんが連載を担当していた雑誌コラムにおいて、宮沢りえさんはビートたけしと交際しており、ふたりは肉体関係を結んでいないということまで言っています。

しかし、これは事実というよりも、演出のひとつであり、このように言うことでりえさんの純粋さを宣伝していたということです。

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おわりに

以上、宮沢りえの母(りえママ)である光子さんの壮絶な生い立ちと最期についてまとめました。

参照:宮沢りえ「彷徨える平成の女神」文藝春秋digital

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